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恩師 原井宏明先生との出会い

恩師 原井宏明先生との出会い

公心会グループ 理事長 三上勇気

はじめに

ここでは原井先生のご指導を受け、強迫症状の寛解(Y-BOCS11点以下)までの期間が平均6.6か月であった筆者が平均3.8か月まで治療期間が短縮するに至った軌跡を紹介する。

当時の自分はまさに『ごく平均的な臨床家 (原井先生自身から言われた) 』であったことに始まる。誰しも師匠と呼べる先生から教わった経験の多い中、筆者には師匠がいなかった。

行動療法との出会い

筆者が行動療法を学び始めた当時はBeck全盛期で、筆者も精神科単科病院に勤務しながら当時名古屋市立大学の教授であった認知療法を専門とされている古川壽亮先生(現京都大学)の勉強会に参加していた。

しかし、坂野雄二先生の書物に出会い、認知療法の起源が行動療法にあることを知り、当時中京大学にいた久野能弘先生の勉強会に通い、久野門下の院生やOBと事例検討をひたすら行い、書籍を読み漁っていたが、臨床実践の手ごたえを掴めずにいた。

当時、日本行動療法学会(現日本認知・行動療法学会)が認定する認定行動療法士という資格を得るも、それを活かせない名ばかり行動療法家であった。

原井宏明という臨床家との出会い

原井先生との出会いは19年前(2004年) に遡る。筆者は北海道で開催された日本行動療法学会主催のコロキウムと呼ばれる研修会で、うつ病の患者にCBTを実践したケースを発表した。

その際、25歳の筆者に気さくに声をかけて頂き、緊張しながら受け答えしたのを昨日のように覚えている。当時CBTもまだ今ほどメジャーではなく、筆者自身も大学や大学院でも指導教員からCBTを教わることなく、独学で学び、手探りで施術していた。

原井宏明という行動療法家は、今でこそ動機づけ面接や数々の書籍で知らぬものがいない圧倒的な臨床力を持つ精神科医であるが、当時の筆者の印象はまさにERP(特にフラッディング)に特化した孤高の行動療法家であり、近寄りがたい強迫症治療の鬼であった。

原井門下の敷居

当時の原井門下は岡嶋美代先生(BTCセンター)をはじめとして行動療法界隈の中でも、ひと際異彩を放っていた。そこで目にした光景はフラッディングと呼ばれる治療であった。

今でこそERPの理論がレスポンデント消去から制止学習へ変遷し、フラッディングに関するイメージも変わってきたが、当時はとても受け入れがたいものであった。

筆者の成長

原井先生が離れた名古屋で強迫症を治療できるセラピストは少ない。

うつ病患者は、たとえ誤った手続きで治療しても自然寛解していくことが多い中で、治療者自身の手続きが正しいかどうかを顧みる機会は少ない。筆者を含め多くの臨床家は自身の腕が正確なものか分からないまま臨床実践を繰り返しているのが実際ではないだろうか。

治療マニュアルが普及している現代において、その通りに施術すればある程度の効果は期待できるかもしれないが、行動療法を施術する臨床家の技術は勝手に上達するものではない。熟練した治療者の指導を受け、体系化された教育プログラムの中で実績を積み上げていくことでしか上達は望めない。

行動療法を標榜すれば強迫症患者はおのずと増え、自然寛解の少ない疾患の前では治療者自身の腕の未熟さを痛感する。近隣のクリニックから紹介されても、その期待に応えることは当時の筆者には非常に難しい状態であった。

 

原井先生から教わった事、それはとても一言では言い表せないが、まず治療者自身が自らの苦手を克服しておくことや、ここぞという場面で躊躇なくそれを実践できること。

そして、回復に至る道筋を理解した上で、患者と同じくらい(時には患者以上に)回復をねがう臨床家としての在り方であった。

エクスポージャーに倫理観を問えば、賛否両論があるだろう。しかし、治療者としての倫理は患者の回復にどれだけ寄与できるかではないだろうか。治療者は患者の改善を導いた体験でしか臨床の腕は磨かれない。

実際に多くの患者を回復に導いた原井先生から発せられる言葉は非常に重い。治療者は治療行動の試行錯誤の中で、効果的と思われる手続きのみを厳選し、奏功した手続きのみを正確に施術していく。

治療者の治療行動の分化強化はまさにそれである。そこでようやく「治せる治療者であること」の重要性の意味を体験として理解する。原井先生は翻訳を始め、多くの本を著されているが、筆者自身が衝撃を受けたその経験は本を通じてではなく、直接的なものである。

自らモデリングを示し、今履いている靴の裏を舐める、便器に手を入れる、警察官の目を盗んで個人情報の書かれたごみを捨てるなどのフラッディング手続き、そして実際に患者と街を散策しながら対象の恐れを抱く文脈や行動を観察し、積極的に曝し、徹底的に儀式行動を妨害する。書籍では学びようのない臨床実践の数々であった。

 

「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやる」。

原井先生の教育はまさにそれであった。ERPの臨床実践を学習者に見せ、治療メカニズム説明し、実践させ、結果を報告させる。学習者はまず原井先生の実践を模倣するが、そこで得た手ごたえを言語化することにより気づきが具体化し、治療行動が最適化されていく。

SVを受けていく中で、筆者が担当する患者が『エロ男』と書かれたマスクを自発的に着用しカウンセリングルームまで来れるようになったことは衝撃的であった。

「それにどんなの意味があるのか?」という声が聞こえてきそうではあるが、この出来事がどれほどのことか推し量れるセラピストはおそらく少ないだろう。

患者が自発的に不快刺激に身を曝し、儀式化された強迫行為の代替行動を自ら提案してくる。このような患者自身の回復に至る行動を治療者は強化し、患者の行動変容を導くのである。

まとめ

令和の現在も原井門下と呼べる臨床家はまだ少ない。しかし、原井先生の治療を求めてゆかりのある臨床家を探している患者は少なくない。それは社会的ニーズであり臨床家にはそれに応える義務があると筆者は考える。

誤解を恐れずにいうと、現代における強迫症治療は、より侵襲性の低い治療法が普及している。それはセラピストにとっても手軽であり、行動コストが低い。しかし、効果はどうだろう?治療行動の選択は妥当か?治療期間は?筆者は疑問である。

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